2007年12月 4日 (火)

安倍・小沢症候群

『「我慢」と「我儘」』

「我慢」と「我儘」はよく似た字である。
安倍晋三氏が総理大臣を突然辞任した時の私の感情は一言、「一国の首相として覚悟が足りない」だった。

日露戦争の終戦交渉にあたった外相小村寿太郎の「覚悟」は、使命観を背景にしたものだった。
今の日本は「甘えの構造」の下、リーダーも国民も全くの腑抜けになってしまい、「覚悟」など遠い昔の物語になってしまった。

正解の御意見番・中曽根元総理は実に素晴しい意見を述べ、いま憲法改正を叫んでおられるが、なぜ現役の総理の時に憲法改正を主張しなかったのかと、実は呆れている。
「知行合一」の陽明学徒たるべき政治家の何と少ないことか、暁天の星を数えるが如しである。

私は本欄に「強いボクサーの条件は打たれ強さにある」と書いた。
いかにハードパンチャーでも、相手の強いパンチに耐えられなければ、チャンピオンはおろか、世界上位ランカーにさえなれない。

これはボクシングだけではなく、企業経営も、強く逞しい子を育てるべき教育界でも、もちろん政治の世界においても、である。

11月4日夕方、突然の「朗報」が飛び込んできた。
小沢一郎民主党代表辞任というマスコミの一報である。
本誌読者に共産党、社民党支持者がいる筈もなかろうが、民主党支持者は多かろう。

私にも多少のネジレ現象があり、前原誠司氏に好ましい人はいるが、民主党で大きな勢力を占める連合・自治労がいる限り、応援する気になれない。
その民主党に小沢氏は何が不満なのか、突然代表を辞めると発表したのだから、私は面白くて、嬉しくて仕方がなかった。

戦国時代で言えば、強敵の武田信玄や上杉謙信が死んだとの報を受けた織田信長の如き思いだった。

自民党にとってみれば、最終回、逆転の走者がホームベースに入る前に、相手の監督が「俺は野球をやめた」とベンチに戻ってしまったのを見ているような気分だったろう。
何が何だか分からぬうちに、負けたはずの試合に勝ってしまった幸運なチームのような気分だったのではないか。

『「我慢」こそが育ての親』

「我慢」が足りず総理を辞めた安倍晋三氏に対して、小沢一郎氏の代表辞任は「我儘」が理由である。
いずれ辞任の真相は明らかになろうが、二人の辞任劇は教育者にとって「他山の石」とすべきだと思う。

小沢一郎氏は65歳で、私と同じ時代に育った。
終戦時に3歳、そして小学校時代は、食べものも、着るものも、足りないものだらけの時代、「我慢」の時代だった。

私はピコイ時代、社員教育で、「3時のおやつ」の話を必ずした。
私の師・中村功から教えられた話である。

「お母さんお腹が空いた。おやつない」
「何を言ってるの、まだ2時でしょ。3時のおやつの時間まで待ちなさい」

「お父さん、次郎物語の本を買って」
「ウン、誕生日が来たら買ってやる。それまで待ちなさい」
等々。

今の親子と違い、いろいろしてやりたくても、おカネやモノが十分でなかった時代は、結局お互いに我慢しないと生きていけなかった。
しかし、モノがなくとも、「我慢」するという心は育てられた。
この「我慢」こそが、私の育ての親だった。

我慢をせず、思う通りにしたいというのを「我儘」と云う。

各家庭には大抵4~7人の大勢の子供がいて、兄は威張り、沢山おやつを分捕った。
その代わり、弟や妹が誰かにイジメられたとなると、「よし、兄ちゃんがやっつけて来てやるぞ」と颯爽と登場したものだ。

我儘な子は、金持ちの家庭か、一人っ子か、おばあちゃん子だった。

子供が大人になるための通過儀礼を経ずに成長すると、一体どんな人間になるのだろうか。
我慢のできない子は安倍晋三になり、我儘に育った子は小沢一郎になる。

今の世の中はモノだけ豊かになり過ぎて、感謝や有難みを知らない。
そんな子は皆、「安倍・小沢症候群」と断じていい。

お太陽様が見ていることも、御先祖様に申し訳ないということも教えられず、何か都合が悪くなると、全てが誰かが悪いんだと、他人の所為にしてしまう。

「僕の名案になぜ頭から反対するんだ。ねもうそんな奴等と一緒にやってらんない。おまけにマスコミも日経、朝日以外はデタラメばかり報じやがって。オレもう切れた。オレやーめた。
大体民主党は政権担当能力もホントはないんだし、次の衆議院選挙に勝てる見込みもないし・・・。ボクこんなところにいるのイヤンナッチャッタ」

私は幸いに一度だって小沢一郎を剛腕だとか、男として凄い奴だと思ったことはない。
彼と「日本国家論」を闘わせたら負ける気なんか全くしない。
「肝っ玉が違うよ、肝っ玉が」という気持ちである。

面白い続編はどうなるやらと思っていたら、数日後、小沢一郎は民主党の幹事連中から慰留工作を受けて、態度保留中とか。

「ウン、ボク困ッチャッタナ。皆がボクがイナイト、オ金もナイシ、沢山困ルッテ。ボクドウスルカナ。カーチャンに相談シテクルヨ」

我儘一郎君の物語、この先や如何。
その後の経過はご存知の通りで、「ボク、ジャアモウ一度ヤルコトニスルヨ」となった次第。
誠に呆れた嬉しい結論となりました。
メデタシメデタシ。

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2007年11月 4日 (日)

追悼「憂国の士」三島由紀夫先生

昭和45年11月25日(旧暦10月27日)。
私が尊敬してやまない三島由紀夫先生の亡くなられた大切な祈念の日である。

三島先生が自決された11月25日は、三島先生と同じ「陽明学徒」であった吉田松陰の死刑の日でもある。
今年は三島先生の自決から37年目、松陰の刑死から148年目を迎える。
今回は追悼の想いをこめて我が「三島論」を記す。

私の人生で一番衝撃を受けたのは、三島由紀夫の自決であった。
ケネディ暗殺にも驚いたが、それはあくまでも「驚き」でしかなかった。
昭和天皇の御崩御は悲しみではあったが、いずれこの日を迎える覚悟は出来ていた。

しかし三島先生の自決は、私自身にとって覚悟なき出来事だったが故に、実に衝撃どころではなかったのだ。

当時、私と妻は子供2人を持つ28歳同士の若い夫婦だったが、事件前日、我が国が直面する国内外の混乱する社会・思想状況などについて話し合っていた。
私たち夫婦は国を愛する心を持った同志でもあった。

「今の日本で貴方がついて行こうと思う人はいますか」の妻の問いに対して、私は躊躇することなく、「それは三島由紀夫先生だ。俺がいま学生だったら、間違いなく『楯の会』の会員になっていた」と答えたことを今もはっきりと覚えている。

昭和45年当時、空手道場の経営だけでは妻子を養えず、私は独力で仕事を立ち上げたばかりだった。

三島先生の自決当日の11月25日、私は家で昼食をとり、得意先との打ち合わせのため、出かけようとした丁度、その時だった。

「三島先生に何か異変が起きている」

妻の声を聞きながらも、出かけようとした私は、「テレビを見て!」の叫びで家に戻った。

東京・市谷台からのテレビ中継を食い入るように見ていたが、暫らくしてアナウンサーが混乱を極めた様子で叫んだ。

「三島が自決したようです」
「三島の首が床に置かれているようだ」

事件の詳細も檄文の内容も分からなかったが、暫らくして私の最も尊敬している三島由紀夫先生の日本人の魂に覚醒の一撃を与える壮挙だと知って、身体が震え出し、涙がとめどなく流れて、止らなくなった。

その日はどうしても外せない得意先との約束があり、後ろ髪を引かれる思いで、家を出て車に乗った。

「国のため命を懸けている人がいるのに、俺は金を稼ぐために出かけていかねばならない。俺は何と卑小な男か」
三島先生への申し訳なさと、何も出来ない自分自身の腑甲斐なさを責めた。

遠い親戚筋に「楯の会」会員の東京外語大生のN君がいたが、私は三島先生自決の翌日も頭の中の混乱が続き、事件の真相を聞こうと思いもつかなかった。

当時はビデオのない時代で、私はオープンリールの録音機に、事件当日のニュースや座談会を録音し、聞き直した。
三島先生の友人だった当時の中曽根康弘防衛庁長官は「気違い沙汰」と一言で切り捨て、佐藤栄作首相は「大変迷惑なことをしてくれた」と語っていた。

「文士・三島は才能に行き詰ったのだ」あるいは「我に続く者が出ることを信じて死んだ」等々、こうした政治家・文芸評論家、マスコミ等の愚にもつかぬ三島論を聞いて呆れ果てた。
皮相的な見方しか出来ない愚か者が、なんと多いことか。

こうした中で三島先生の弟分でもあった石原慎太郎国会議員はこう語っていた。

「誰にでも出来そうで出来ない、自分の死をかけがえにして、自分が愛していた価値あるものを守るために行為をするということ。その中でかけがえのない才能が失われた。友人として哀惜の念で一杯です」

混乱した状況の中での言葉こそ、その人の器、哲学を表すものだと思う。

三島先生は自決の1年半前の昭和44年5月12日、東大安田講堂で全共闘の学生を相手に激しい真剣勝負の討論会に単身乗り込んだ。

三島先生は、この討論で、

「私が行動を起こす時は、諸君と同じ非合法でやるしかない。決闘の思想でやれば、それは殺人罪であるから、そうなったらお巡りさんに捕まらない内に自決でも何でもしてて死にたいと思っている。
そういう時期がいつくるかわからないし、そういう時期に合して体を鍛錬して近代ゴリラとして、立派な近代ゴリラになりたい」

1年半後の自決を覚悟していたのではないか、と思わせる発言である。
全共闘の学生に、思わず「三島先生!」と言わしめた人間力に感嘆する。

私の生き方の根本にある哲学は「生長の家」の谷口雅春師によって作られた。
日本に誇りを持ち、限りなく日本を愛すという谷口雅春師の思いは、宗教を超えた日本人としての使命観を、若き私の心に打ち込んで下さった。

昭和46年11月、谷口雅春師は『愛国は生と死を超えて-三島由紀夫の行動哲学』を出版された。
そのはしがきに、
「三島氏の自決の真の意義を伝え、今や誤まれる民主主義の美酒に陶酔し、自己崩御を来たさんとしつつある我が国に、祖国愛の精神を復活せしめて、危機に直面する我が国を救わん」とある。

三島先生の自決から37年、自らの人生を振り返り、これからの人生は三島先生の志を継ぐ以外にないと気づいた次第だ。

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2007年10月 4日 (木)

男には逃げてはならぬ時がある

『異端児の武者修行』

今も時折、空手修行時代を思い出す。
当時は何故こんな辛い稽古をするのか、意味も分からないまま、恩師山田辰雄先生の指導に従い、無我夢中に稽古をしていた。

先日、私の空手の弟子で稽古熱心な鈴木直也君(日本キックボクシング連盟ヘビー級プロボクサー)から「近藤先生は若い頃どれくらい稽古をしたのですか」と訊ねられた。

「1日8時間はやった。山田先生が100㎏ほどの大きなマキワラを撃ちまくれと言われ、やめろと言われるまで1時間でもやったものだ」と答えたが、鈴木君はそれを聞いて驚いていた。

当時、私の通っていた学校が飯田橋の本部道場の近くにあり、授業のない時には稽古に行くのが当たり前の日々だった。

昭和38年初めの頃、8ミリビデオで撮った日本拳法空手道の稽古や実践組手のフィルムを持って、映写機持参で全国の空手道場回りをすることになった。
「本当の沖縄実践空手の稽古方法と組手を知ってもらい、広めよう」という山田先生の発案である。

山田先生と次男の侃(ひろし)先生、そして私の3人で、大きなバックに試合用具と映写機を入れて、静岡、名古屋、大阪、広島、福岡、鹿児島など各地の空手道場を巡る、言わば啓蒙の旅、武者修行である。

旅立つ前、山田先生から「体操空手(寸止め空手)」の連中から、どっちが強いか戦おうと挑戦を受けることになるだろう。その時にはまず近藤君がやりなさい。もし負けたら侃が出て戦う」と言われていた。

当時20歳だった私は、稽古を重ねていたこともあり、どんな相手と戦っても負ける気もせず、まして不安や恐怖感などは全くなく、この他流試合を楽しみにしていた。

山田辰雄の名は全国各地の有名な空手道場では、「空手界の異端児」として知られており、各道場では、稽古や組手(試合)の8ミリ映画を見てもらうところまではスムースにいった。

しかし、「本当の強さとは、こうした稽古や組手でなければ生まれないのだ」という山田先生の説明のあたりから険悪な雰囲気になった。
最後には「じゃ一戦やりますか」ということになることもあった。

山田先生は「貴方たちは素手でいい。私のほうは大きな怪我をさせないように、ボクシングのグローブをつける」と言われた。
結局、他流試合になったのは3回くらいだった。

その頃の私の体重は70㎏、慎重派172㎝だから決して大きい体ではなかったが、山田先生におしえていただいた空手、通常の何倍もの稽古、おまけに鬼のように強く恐ろしい侃先生が、万一の時のために控えているということで、今考えてみると不思議なほど緊張感も怖さもなかった。
そのお陰で、侃先生の手を煩わせることなく、すべての試合は私一人で楽に勝てた。

しかし、この武者修行の旅で、私たちの流派を広げるという所期の目的は果たせなかった。
「もし強くなりたいというお弟子さんがいたら私のところへよこしなさい」との山田先生の言葉も、結局は何の反応も得ないままだった。

「こんな強い空手の流派なら、仲間としてやっていきたい」と、申し入れてきた個人も、道場も一つもなかった。
総合格闘技花盛りの今の時代に生きる若者にとっては、ちょっと想像しにくい時代の話である。

『行蔵は我にあり、評価は他人の仕事』

私が会社勤務をしていた24歳の時、専務から言われた言葉が、今も私の脳裏に刻みこまれている。

「若い時には何か一つ、これなら誰にも負けないというものを一所懸命、一つでもいいから身に付けなさい。その自信が一生の財産になるんだよ」

かつて私が経営していた㈱ピコイの社員や、空手道場では弟子たちに、私はその時の専務の言葉を言い聞かせてきた。

ピコイは平成11年に和議を申請したが、私は「こんな試練や苦しみに負けてたまるか」と歯を喰いしばり、地獄のような苦難を乗り越えることができた。
これも「若い頃、厳しい山田先生の稽古にも耐えられたのだから、このピンチも必ず乗り越えられる」と確信し、常に闘志を燃やしてきたからだ。
改めて空手との出会いに感謝している。

男には逃げてはならぬ時が人生には必ずあるものだ。
逃げた男は、再び苦しい場面に出合うと逃げ出したくなる。

私が空手を始めた動機は高校1年生の時、3人のチンピラに脅かされ、戦わずに謝ったことだった。
その時、1人で涙を流した。
自分が恥ずかしく、この悔しい屈辱は人生に一度で十分だと決意した。

それ以来、私は「強くなるしかない」の一念で、「己に誇れ、己に恥じよ」を人生の指針として生きてきた。

勝海舟は「行蔵は我にあり、評価は他人の仕事」と言ったという。
至言だと思う。

しかし、実のところ、和議申請以来の自分は他人はどう思っているのだろうか、と思うこともあり、こうした弱い自分の心と戦っている。
私も、勝海舟の如く、他人の評価に惑わされることなく、超然と生きたいと願い、今も修行を続ける毎日である。

孟子は「富貴も淫するあたわず、武威も屈するあたわず、これをこれ大丈夫といふ」と言ったが、私が尊敬する日本キックボクシング連盟会長の渡辺信久氏は武道精神に則り、富貴とは全く縁なき道を生きている。

こんな漢が私の傍にいる限り、私には武威は勿論、富貴をも超然として乗り越える勇気が湧いてくるのだ。

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2007年9月 4日 (火)

敵の土俵で戦うということ

『天下分けめの選挙だったのか』

前回に引き続いて、今回も空手で学んだ我が人生のことを書くつもりでいたが、今回の参議院選挙の結果の異様さにもの申さずには居られず、急遽テーマを変えた。

今回の参院選の結果は野党の地すべり的「大勝利」だった。
この結果を大喜びしている御仁が今回の選挙の仕掛け人であろう。

民主党の小沢一郎党首が「党首と政界引退を懸けた戦い」に勝って、何か嬉しそうに喋っているのをテレビで見た。
またこれから、彼の顔を嫌でも新聞やテレビで見なければならないのかと思うと頭が痛くなる。

私の師である中村功氏は『漁火新聞』8月号(公示直後7月13日)に、「参議院選挙は天下分けめの選挙ではない」とのタイトルで書いている。
中村氏は今回の参議院選挙を4つのテーマに分けている。

①衆議院は参議院に優先する
②何を選挙の争点とするか
③年金報道についての疑惑
④冷静な目で受け止めよう

以下、中村論文の冒頭部分を紹介する。

第一六六六通常国会が十二日に公示され、二十九日の投票日に向けて十七日間の選挙戦が始まりました。

そして今朝、新聞を広げたら「天下分けめの参議院選挙」という大きな見出しの記事が掲載されていました。
私はこれを見て思わず笑い出してしまったのですが、皆さんは一体この大見出しをどのように思いますか。

今回の参議院選挙は、本当に「天下分けめ」の選挙なのでしょうか?
マスコミの言うことを迂闊に信じてはいけません。
そんな思いで私の思うところを書いてみました。


以上が中村論文の冒頭部分である。
「天下分けめの」ということと、選挙が重要であるということは全く違う。

「天下分けめの関ヶ原」や、日露戦争の時の日本海海戦の様に、国の命運を決するほどの大きな意味合いが込められた時の言葉を、何故マスコミが使ったのか。
中村氏の言っている通りである。

『「集団イジメ」にあった安倍政権』

要はマスコミに嫌われた安倍政権を選挙キャンペーンの中で、ここぞとばかり、朝日新聞やNHKなど産経新聞以外のマスコミが「集団イジメ」を行ったのだ。

何故、安倍首相がかくも憎まれ嫌われたのか。
憲法改正のための「国民投票法」や、日本の教育をまともにするための第一歩とも言うべき「学校教育法」「教員免許法」「地方教育行政法」等の教育改革三法を成立させたこと等は反日的日本人集団にとっては許し難いことだったのだろう。

こうして、安倍政権に何とか因縁をつけたいと思っている中に年金問題が浮上したのだ。
5000万件という宙に浮いた年金記録問題は、お金が何より大切な多くの日本人の損得意識を刺激し、「敵ながら天晴れ」な揺さぶりをかけてきた。

私は数学に精通してはいないが、5000万件という数が多いか少ないかは、分母が分からない限り評価の限りではないと考える。
しかし大方のマスコミは意図的なのか、この分母の数を報道しない。

仮に年金納付者8000万人、50年間で年12回とすると480億ヶ月となる。
この計算は単なる仮定の計算だが、この通りとすると5000万件は0.01%にしかならない。

おまけにこの年金問題は過去50年にも遡っての問題であり、小沢一郎氏や村山富市氏が政権の重要ポストについていた時代にもこの問題は存在していたのだ。
何故いま安倍首相が年金問題の悪の元凶と言われねばならないのか。

社会保険庁を実質的に動かしているのは、民主党を強く支持している連合・自治労であるということも、我々は知っている。
しかし、自民党も安倍首相も何も反論しようとしなかったのは何故なのか。

『サッチャーの気概に学べ』

イジメられる子供は何故イジメられるのか。
小学校で2回転校、その都度イジメられる体験をした私は、集団で(そんなにひどいイジメではなく、意地悪の大きなものだったが)イジメにきた奴等に1人ずつ決闘を申し込んで戦った。
勝ったり負けたりだったが5~6人と戦えば、後は誰もイジメようとはしなくなった。

要は理不尽な言い掛かりは許さないという決意さえあれば、イジメ問題は解消されるということだ。

日本人は愚かなくらい素直で、洗脳され易い国民性を持っているのかと思う。
同時に忘れ易い国民でもある。
そうでもなければ今回のような民主党の地滑り的勝利が起こる筈がなかった。

私は、与党は「第三の権力」と言われるマスコミに負けたのだと考える。
善良な国を思う国民は、「これはマズい選挙をした」と気づく筈だ。
彼らの票は必ず戻ってくると信じたい。

国政レベルの選挙では、国家の誇りや国益に関わる政治経済問題、外交問題を争点にすべきである。
外交上の重要問題である北方領土や尖閣諸島、竹島問題がまったく争点にならなかったし、各政党は取り上げもしなかった。

これは実に不思議なことであり、残念なことである。
与野党は国家百年の大計を争点にせず、市町村議会レベルの選挙に過ぎなかった。

かつてサッチャー首相がアルゼンチンにフォークランド諸島を占領された時、断固として武力によって領土を取り戻した。
この「鉄の女」の気概に学ばねばならないと、痛切に思う。

敵の土俵で戦って勝つのは至難なり。

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2007年8月 4日 (土)

ちょっとした勇気を持てば真実が見えてくる

今回も私の空手人生と、武道から学んだことについて、記したい。

私が今も稽古している空手は「日本拳法空手道」であるが、この日本拳法空手道はよく「日本拳法」と間違われる。

日本拳法は他流派のことだから、その歴史を十分知っているわけではないが、私と日本拳法との出会いは、昭和36年のことだった。

東京・飯田橋の本部道場で、内弟子として稽古を始めた山田辰雄先生の紹介で日本拳法の森良之祐最高師範とお会いしたのが縁の始まりである。

日本拳法は森先生の努力によって、その後、関東の各大学に日本拳法部が出来て、大学対抗の試合が行われるようになった。

私は交流稽古ということで、日本拳法の篠原君とよく稽古をした。
彼は後に明治大学主将となり、個人選で何回も優勝した強者である。
ある時、目黒の日本拳法本部道場で「面と胴の防具」をつけての稽古に出向いたことがあった。

防具をつけ、投げ技や逆もある日本拳法の試合では、鬼のように強い谷口師範、土肥師範、そして篠原君にも相手をしてもらったが、まるで歯が立たず、19歳の私は自信をなくしそうになった。

しかし、日本拳法空手道の道場での稽古試合では、立場はまるっきり逆だった。
私は篠原君などを子供扱いにしていたものだ。

何故か?

リングのウエで相手を撲り、蹴り倒す武道は、防具やルールが違うと、まるで違う戦いになるのだ。
私はそれをサッカーとラグビー、あるいはバレーボールとバスケットボールほど違うのだと説明している。

日本拳法からは、キックボクシングのチャンピオン猪狩元秀、ボクシングで世界チャンピオンになった渡辺二郎などが出たが、彼らが栄光を掴んだのは、似て非なる格闘技に挑戦した時の、勝手の違い、戸惑いを、稽古の積み重ねで乗り越えたのだ。

間合いや動きの違い、技の違いを、身体(即ち痛さ)で覚え、克服したのである。

私は元来不器用な男だから、日本拳法と自分の流派である日本拳法空手道の両方をやるのは無理だと考え、実戦空手である日本拳法空手道一本でやってきた。

山田辰雄先生と仲の良かった極真会館の大山倍達先生の道場へも何度か行ったことがある。
その時、殆どの技は同じだが、素手とはいえ、顔を撲らない戦い方は、これまたバトミントンと卓球くらいの違いがあると感じたものだ。

ボクシング日本ミドル級一位にまでなった小林さんという方がいた。
「山田先生から君にボクシングを教えろ」と言われたと、飯田橋の道場に大柄な小林さんがやって来た。

小林さんは、稽古中の私が素手で100㎏もある丸いサンドバックや巻きワラ(空手独特の拳を鍛え、当身の力をつけるもの)を打つのを見て、「近藤君、そんなことをしていると拳を痛める。バンテージを巻いてパンチンググローブで打たないとダメだ」と注意されたことがある。

「真に相手を打倒する空手試合」と銘打って後楽園ホールで試合をやったことがある。
試合前に、猛者の多い拓大などの大学空手部に「飛入り大歓迎」と書いた案内状を送りつけた。

試合はまずは各地の同門道場生の間で行なわれ、飛入り参加を予定している各大学の空手部の猛者連中がリングの傍らに集まっていた。
彼らは日本拳法空手道を、技の美しさやスピード感に欠けるものと思っていたのだろう。
盛んに野次を飛ばしていた。

試合は1ラウンド3分の5ラウンドがルールだ。
どの試合もノックアウトで勝負がついていた。

私もリングに上がったが、当時私は65㎏、相手は同門の神山大先輩で90㎏だった。
だが、リングに上がったら先輩も後輩もない。
私がまずパンチで神山先輩をダウンさせた。

しかし、次のラウンドで、私の攻撃で鼻の骨を折った神山先輩の猛攻で、私はまるでサンドバックになったように打たれた。
レフリーが私の耳もとで、「後の試合があるから、早く倒れろ」と囁く。
結局はノックアウト敗けを喫した。

後の試合とは飛入り相手の試合のことで、勿論私も参加することになっていた。

同門同志の試合が終わって「これから他流派の希望者との試合です。希望者は本部席へ集まって下さい」とのアナウンス。
一体何人が名乗り出るのかと心待ちにしていたが、希望者は一人も出てこなかった。

他流派の諸君は、日本拳法空手道の同門同志の試合を見て、技のスピードが遅く見えても、パンチ力やローキックが如何に凄い破壊力があるかがわかったのだろう。
彼らがコソコソと逃げるように帰っていった姿は今でも忘れられない。

翌日のスポーツ紙に、この試合の記事が掲載された。
曰く、「これは空手ではない」「こんな殺伐とした試合は人前でやるものじゃない」「こんな試合は世の中が受け入れない」など書きたい放題に書かれた。

しかし、この試合を契機にキックボクシングという名が世間に広まり、今や格闘技の一世代を築き、総合格闘技の源流となっている。

ミャンマーのビルマ拳法は素手で闘い、今もラウンドの制限はない。
10カウントルールもなく、一方がぶっ倒れ、完全に戦意をなくすまで徹底的に闘うスポーツだ。

人間はそれまでの常識でしか、物事を理解することができない。
でも、ちょっとした勇気を持ちさえすれば、それまで見えなかったものが見えるようになるのだ。

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2007年7月31日 (火)

先駆者は不遇を恐れず

『第三次格闘技ブームの到来』

最近、「K-1」や「プライド」などの格闘技がテレビ中継されるようになり、高視聴率人気番組になっているようだ。

「K-1」などには、柔道家やアマチュアレスリング、あるいはプロボクシングの選手、さらには相撲の元横綱まで参戦して、「第三期格闘技ブーム」と言ってもよい時代と迎えている。

プロ興行師の派手な演出によって、面白さや期待感を高めており、このブーム長く続きそうな予感がする。

私が空手を始めてから、今年11月で早いもので50年が経過する。
いまでも空手の稽古は欠かさない。
空手を始めたのは「強い男」になろうと思ったからだ。
他の格闘技をやっている人の動機とほぼ同じだろう。

36年前、新潟で「日本拳法空手道拳心館道場」という空手道場を開設した。
現在は、空手だけでなく、ボクシング、キックボクシングも教えているが、近年の格闘技ブームで入門者が増えたわけではない。

毎月の入門者は2、3名だが、入門しても長続きする者は殆どいない。
常時道場に通ってくるのは、30名ほどである。
道場で稽古するには、丁度いい人数だろうと思っている。

『「道場破り」の荒武者が減った』

50年も熱心に空手の稽古をやってきたものだから、私をもの凄く強い「空手の名人」と思われる方もおいでになると思うが、決して強いわけではない。

「名人」と「達人」は、どちらが強いかと問われれば「名人」のほうが強いと思うが、目先の勝負にこだわらず、超然とした境地と卓越した技量を持つ「達人」の方が実力は上であろう。

私自身は、他人からまだ一度も「名人」だとか、「達人ですね」と言われたこともない。
実際、日々稽古したり、つけたりしていても、内心「俺の技量はこの程度か」と驚いているような次第だ。

36年間で、私の道場には腕試しの「道場破り」が10名ほど来ただろうか。
こうした「道場破り」には、私自身が立ち合ってきたが、それも45歳までだった。
それ以降は、私に代わって師範代が、3度ほど道場破りを撃破したことがあったくらいで、いまはいなくなった。

今は自分の腕を試すのに「道場破り」をする時代ではなくなったらしい。
腕を試したければ「K-1」のリングに上がれるし、極真会館のオープン戦にも出られるという時代になったからだ。

しかし「道場破り」をする荒武者が減ったことだけは確かだ。

『「打たれ強い」ということ』

私の空手は日本拳法空手道だが、空手界では異端視される時代が長く続いた。
ここで、空手の歴史を簡単に振り返ってみたい。

沖縄から日本本土に空手(唐手)が入ってきたのは、大正の終わりから昭和にかけての頃である。
松濤館や剛柔流の祖となった船越義珍の流れを汲む流派に対し、本部朝基の流れを汲んだのが日本拳法空手道であった。

私が高校1年生の時に入門したのは、この本部朝基の高弟である山田辰雄先生の道場であり、新潟の霜鳥新一先生は孫弟子になる。

昭和35年頃、空手と言えばスピードのある、格好いい「船越流」がその代名詞であった。
そして、その時代は15年ほど前まで続いていた。

私が東京で山田辰夫先生の内弟子として住み込んだのは昭和36年だった。
山田先生は船越流空手を「体操空手」「空砲を撃って、当たった、当たらないと騒いでいる空手」と言っておられた。
勿論、船越流の空手各流派は馬鹿にされたと感じ、面白くなかった筈だ。

空手の試合を「組手」と呼ぶ船越流では、実際に相手と打ち合ったり、蹴り合うのではなく、攻撃を相手の体の一寸手前で止める「寸止め」がルールであった。

激しく動いている対戦者が、一寸手前で攻撃を止めることは至難の技であり、非常に高度の技術を要する。
正に名人芸と言ってもよい。
空手の「寸止め」ルールで強くなるということは素晴しいことであるが、同時に審判の判定も、寸止めルールでは神業のような眼力が必要なことは言うまでもない。

しかし、空手の試合で「寸止め」ルールでは分からないことがある。
それは打撃された時の「打たれ強さ」ということである。
ボクサーで一流になる人の絶対的条件は、攻防の技術に熟達すると同時に、その人が打たれ強いことである。

打たれ強さは、顔の形や長さにもよるが、天性の強さ弱さが8割だろう。
ボクシングでアゴを引けと教えるのは、打たれた時のダメージを最小限に抑えるためである。

今の若者の多くは、残念ながら実に打たれると弱い。
駒澤大学苫小牧高校野球部では、先生がちょっと学生を殴っただけで、本人も父兄も大騒ぎ、学校は慌ててお詫びする。
全く、打たれ弱き者の「正義面」には呆れるばかりだ。

勿論、日本政府も打たれ弱い。
因縁をつけられるのを恐れ、首相の靖国参拝も、嘘話の南京大虐殺も従軍慰安婦問題も謝るばかり。

奥歯をグッと噛み締めて、脅しには毅然と立ち向かってもらいたい。

空手は今や国体の公式種目になり、プロテクターは着けるが、実際に打ち合い、蹴り合い、誰が見ても分かる試合形式になった。
時代の先駆者は不遇を恐れずである。

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2007年6月30日 (土)

義を見てせざるは勇なきなり

言葉から思想が生まれるのか、思想から言葉が生まれるのか、と理屈を並べる程のことはない。
聖書は「初めに言葉ありき」と教えてくれている。

「義を見てせざるは勇なきなり」
皆さんがよく御存知のこの言葉は『論語』に出てくる。
私自身、この言葉を何時どんなきっかけで知ったのだろうか、誰かが教えてくれた筈だが・・・。

私の子供の頃は、一方的に撲られたり、負けている若者を黙って見ているのが子供心にも許せない気持ちになったものだった。
子供同士のケンカやチャンバラごっこの時も「義を見てせざるは勇なきなり」「義によって助太刀致す」と、こんな言葉がごく自然に口をついて出ていた。

『男が男として生きるために』

去る4月、ある会社の新入社員研修を2泊3日で行った。
3日目に「男道実践」ー男が男、漢として生きるためにーという副題で講義をした。

「男らしさとは何か」
「男のやさしさとは何か」
「男は男らしく、女は女らしく」
などの項目の時に、「義を見てせざるは勇なきなり」の話をした。

念のため参加者13人に「この言葉を知っているか」と訊ねたら、20歳から24歳までの若者全員が何と「初めて聞いた言葉です」との返事。
それが冒頭の私の疑問になった次第。

「男らしくないこと」「卑怯なこと」「恥ずかしいこと」とは何か。
子供の頃によくケンカをした世代は、それなりに男の哲学、男の生き方を学ぶことができた。

私の子供の頃には怖い大人が周りに沢山いた。
家には最強の師である親父、近所の怖い大人たち。
そして遊び仲間の上級生、学校にはもちろん厳しい先生(先生という言葉自体が畏敬の対象だった)がいた。

学校で先生から撲られ、ホッペタに傷をつけて家に帰ると、親父が「どうしたんだ」と訊ねる。
「先生に撲られました」と答えると、「何、先生に撲られた?そんな子は許せない」と親父からもう2、3発ブン撲られる。

という体験は私だけではない。
殆どの同級生が体験してきた。
今の親との何と大きな差か。

今なら「先生に撲られた?そんな先生は許せない」と、教育委員会やマスコミ通報し、騒ぎ立てるのが当たり前の風潮になっている。
まるで一寸強く触ると壊れてしまう「ガラスの動物園」状態の日本。

これは運動部にまで伝染してしまった。
一寸したシゴキにも過剰反応を示す馬鹿馬鹿しさ。
シゴキ、体罰なしでどうやって強い男を作り上げることができるのか。

「話し合い」では、男は育たないのだ。

10年程前、福井県の敦賀気比高校野球部で体罰事件があり、選手を撲ったとして野球部の渡辺監督が解任された。
私はその時予期していた。
気比高校野球部きもう二度と甲子園に出ることはないということを。

解任される時、渡辺監督はこう言った。
「子供は甘やかすだけなら、ツケあがります。教えることはきちんと教え、叱らないと、子供は最後には何も言うことを聞かなくなる。
それを私は最も懸念します。

日本では、もうどの家庭でも子供中心で甘やかし放題。
それがスポーツの現場にも広がってきた。
そんな子供たちにこそ、スポーツを通じて我慢することや正しいこととは何かを教えなければならない。

周囲の者がみな子供に遠慮し、正しいことを教えられないようでは、私が野球をやる意義がない。
それが私の信念です。
私の方からやめさせて貰います」と。

渡辺監督解任後、弱小になった気比高校野球部を見て、彼を批判した阿保なマスコミや父兄は現状をどう思っているのか。
渡辺監督は私の友人である京都伏見工業高校ラグビー総監督の山口良治先生と友人同士でもある。

暴力とシゴキ・体罰の違いもわからぬ「やさしいだけ」の日本の教育界の愚かさ。
私はこのことを10年前から危惧していたが、思った通りになってしまった。

私は、新入社員諸君に「義を見てせざるは勇なきなり」について話した。
「義とは人間として進むべき正しい道のこと。正義であり、人としてやらねばならないことでもある。

そんな場面に出くわした時、何もしないのは勇気のないことなんだ。
人が人として、やるべきことをやらないのは卑怯なことであり、男として恥ずかしいことなんだ」

「電車内での暴力、街で暴走族にからまれた人、いじめや脅かしにあっている人、そんな時、今までは君たちは見てみぬふりして、トラブルを避けていたに違いない。
しかし今日からはもう見ぬふりはしないだろう。
男の使命や誇り、勇気を学んだんだから」

私の経験や実践を交えた話に、深くうなずいた若者たちであった。
実は若者の半分が女性だった。
彼女らは目を輝かせて聞き入っていた。

私はよき先人・先達の名言・教訓を通して、「知行合一」を実践できる、よき日本人を1人でも増やしたいと思う。

最後に、研修に参加した女性の感想文を紹介しよう。

「今日は男道について学びました。私の周りには潔く格好いい武士のような男性はほとんどいません。周りの男性にイライラしてしまうこともあります。

日本人として、男女にかかわらず大切にしなければならないことが、私を含めた若者には少なくなっていると思いました。
『義を見てせざるは勇なきなり』は、常に心にとめておきたいと思います。」

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2007年5月31日 (木)

勇気と思慮なき政治家は国を誤まる

『ネーミングって凄いものだ』

それにしても「ネーミング」というものは凄いものだ。
世の中には実に旨い名前を考えつく奴がいる。
「高利貸プロ武」という名前なら、愚か者もそう簡単に金を借りに行くまい。

だが、「サラリーマンのための金融機関ですよ」
「だからサラ金なんですよ」との甘い罠には簡単に引っかかる。
質の悪い奴にからまれると、ずっと脅かされ続けることになる。

ニコニコ顔で簡単に金を貸す善意の人なぞ、いるはずのないことは大人の常識だ。
これは悪名高い暴力金融だけではない。
サラ金も同様である。
そのサラ金という名の高利貸の親会社は、実は銀行なのだ。

昔、ヤクザは堅気の衆には手を出さなかった。
今では天下の一流銀行がサラリーローンと称す高利貸の元締めになって、堅気の衆の懐を狙う時代になった。

高利を承知で借りた堅気の衆は遊び人の掟を知らず、「利息を払い過ぎたので返してくれ」と堂々と言える世の中。
ズルい奴等(高利貸)と、身勝手・無責任な堅気の衆との間にさらに弁護士が加わる。
イヤな日本になったもんだ。

ネーミングと言えば、「平和憲法」の名付け親は社会党か朝日新聞かは知らないが天晴れ。
政治家は「平和憲法」に振り廻され続けている。
2年前も小泉首相は広島、長崎原爆記念式典で「平和憲法を持つ我が国は・・・」と宣う始末。

「従軍慰安婦」や「南京大虐殺」も、ネーミングの威力の然らしむるところ。
共産党や左翼の連中の、一見もっともらしいキャッチフレーズは見事だが、彼らには決して負けたくないものだ。

『質の悪い奴には誠意は通じぬ』

さて、質の悪い奴にからまれた時の極意は、彼らに誠意が通じると思ってはならないということだ。
こちらの善意が通じると思って、ことを穏便に済ますために謝ってしまうと最悪の事態を迎えることになる。

難しいのは、相手が誠意の通じる人か、質の悪い奴かを見分けることだ。
と言っても、私は見抜く力がないので、原則的に人間すべて誠意の通じる人だという前提で、生きてきた。

これからも、「至誠にして動かざる者、未だこれあらざるなり」(『孟子』)という、吉田松陰の座右の銘の通りに生きていくことにしている。
勿論、怒る時、戦う時、筋を通す時の心構えだけは忘れてはいない。

だが、世の中には善意・至誠とは全く別の生き方をしている人が大勢いる。
至誠・真心を逆手にとってつけ込もうとする輩の何と多いことか。

私は最近、人の善意・至誠を信じて生きようとする者は、人の上に立ってはならないと思うようになってきた。
責任の軽い個人の立場でなら、何を考え、どう行動しようと外部に対する影響力は少ないのだから、その人の自由である。

しかし企業・団体の責任者、天下国家を司る政治家は、したたかな戦略眼をもって物事に対処してもらわねばならない。
この世界は至誠・善意だけでは通用しないのだ。

『謝罪ぐせのついた政治家たち』

政府や企業が、いつからこんなに謝まり上手になってしまったのか。
不祥事をした企業は、消費者に謝り続けるしか仕方ない。
以前なら謝罪広告が新聞に載ると一体何があったのかと、あの細かい字を丁寧に読んだものだったが、今は連日謝罪広告が掲載され、とても読む気にならない。
日本の企業はなぜ急にこれほど休息に堕落し、レベルが下がってしまったのだろうか。

企業の不祥事が続いているが、日本企業信頼感は外国企業のそれより遥かに高いレベルにあると、私は今も信じている。

不祥事が表沙汰になるきっかけは、大部分が「内部告発」だ。
マスコミは内部告発者を「正義の旗手」と讃えているが、所詮裏切り行為に相違ない。
外部に告発する前に、なぜ勇気を奮って経営者に直言しないのか。

その行為については、「かくすればかくなるものと知りながら、止むに止まれぬ大和魂」(松陰)の覚悟を持ってやってもらいたい。

一方、国家を代表する政治家を見ると、政治家は実に退化してしまったものだと痛感せざるを得ない。
馬鹿なのか、思慮が浅いのか、勇気がないからなのか、謝罪してはならぬことを、してはならぬ相手に、謝罪する政治家の何と多いことか。

靖国参拝を取りやめた中曽根康弘元首相、ベッタリとポマードを塗ったようにハニートラップに引っかかった橋本龍太郎元首相。
マイク・ホンダ議員(米国民主党議員)が5月にも米下院に提出する「従軍慰安婦非難決議」のきっかけを作ったのは、村山富市元首相と河野洋平衆院議長の2人である。
彼らは間違いなく国賊である。

私の友は皆、陽明学徒である。
前号の木村隆司氏に続き、今月は石川県金沢市の㈱KBMの諸橋茂一氏をご紹介する。

諸橋氏は(財)女性のためのアジア平和国民基金(村山富市理事長)に対し、
「285人の慰安婦に寄付金5億6500万支払った。その経費が国費約50億円。その内160万円を国庫に返納せよ。

同女性基金が、全く根拠のない『河野談話』を前提に、不当な金を払い続けたことで、日本人である原告の名誉と誇りは大きく傷つけられた。
その精神的苦痛の慰謝料として金10万円を払え」と訴訟を起こした。

間違った謝罪は国家の未来に大きな禍根を残すのだ。

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2007年4月30日 (月)

テレビから俗悪番組を追放しよう!

今から8年前の平成11年8月、今の日本の現状を何とかしようと、私は日本国に誇りを持っておられる方々に、一緒に立ち上がろうと呼び掛け、東京の明治記念館で「勇志会」を立ち上げた。

集まったのは勇気と志を持つ約120人。
文字通り「勇志」を持った人々である。

ところが、この年の10月にアクシデントに見舞われた。
私の経営する会社ピコイ(店頭上場)に60億円の回収不能の金があることがわかったのだ。
急遽、和議を申請することとなったため、私が仲間に呼び掛けて立ち上げた「勇志会」も、設立総会だけで、その後の活動は何一つできなかったのだ。

しかし、その「勇志会」の参加者の中から約10名の人々が、私の心の応援団として「勇志会」の活動を続けてくれた。

和議決定までに13ヶ月も要した事判だったが、54%を自力で弁済し、7年後の昨年8月に一応の社長としての責任を果たした。
私はこの機に、自分が創業し、育ててきた会社であるピコイを離れた。
しかし、多くの方々には多大な迷惑や心配をかけた私の心は生涯晴れそうもない。

現在存続する「勇志会」は、名もない10名ほどの集まりであるが、「志」だけは誰にも負けない、日本国を愛する陽明学徒の集まりだと、私は自負している。

『子供たちを駄目にする俗悪テレビ』

この「勇志会」に木村隆司という好漢がいる。
木村さんは広島テレビのニュースキャスターを務めていたが、日本国のために自由に行動したいと、広島テレビという安住の職場を捨てて、荒波に乗り出した。
現在は少林寺拳法の道院長を務めている。

少林寺拳法は「半ばは己の幸せに、半ばは他人の幸せに」という教えを受け継いでいる。
木村さんは少林寺拳法の師範として活動しているが、この他にも「草莽女性塾」塾長など幅広い活動をしている。

この木村さんが、いま果敢に挑戦してるのがテレビ番組の健全化だ。
簡単に言えば、テレビから俗悪番組を追放しようという活動である。
テレビ局は視聴率稼ぎのためか、それとも彼らの知的レベルが低いのか、子供たちに悪影響を与えることを知りながら、実に下らない番組ばかりを放映している。

本来の教育効果を無視して、面白ければ下品だろうが、卑猥だろうが、視聴率さえ稼げれば何でもいいというのが、大方のテレビ・バラエティー番組だ。
言葉遣い、長幼の序などをまったく考えない出演者や製作者たち。
礼儀、躾、思いやりや勇気などは、彼らの眼中にないようだ。

算盤勘定で損か得かばかりを考え、「義」や「公」を忘れてしまった大人たち。
そうした大人たちが素晴しい青少年を育成できるはずがない、と思う。

青少年や子供を駄目にしているのは、彼ら自身にも問題はあろうが、実は彼らを厳しく指導できない「友達親子」「友達教師」なのだ。
子供たちをキチンと叱るこわい大人のいないことが、実は子供たちにとって大きな不幸だ。

『テレビ番組の健全化は緊急課題だ』

青少年を含めた戦後の日本人を駄目にした最大の原因は「東京裁判史観」だ。
これによって、日本人の誇り・自信・使命感が失われ、義務・責任を忘れて、自由と権利だけが大手を振ってまかり通っている。

だからこそ、いまの教育の大切さが喧伝されているのだろうが、文部官僚や先生(日教組と隠れ組合員)に任せておいても、日暮れて道遠しである。
しかし教育改革は推し進めてもらわねばならない。

しかし子供たちの良好な教育環境を奪ってしまったテレビの責任は大きい。
木村隆司さんはこうした状況下で、テレビの健全化に活発な活動を展開している。

まず、手始めに「社団法人青少年育成広島県民会議」と「青少年の健全な育成を願う広島母の会」で「子どもに好ましくないテレビ番組に関する調査」を行った。
その結果を基に、各テレビ局に番組の改善を求めたのである。

広島母の会の浮田左知子さんが活動の一端を手紙に書いてくれた、その手紙の一部を紹介しよう。

「子どもたちが劣悪番組に慣らされ続けると、子どもらしさや素直な感性まで失われていくような気がしてなりません」

「あらゆるテレビ番組についての幅広い層へのアンケートの分析結果をまとめ、これを各テレビ局、各スポンサーに送付し、番組内容の改善を強く求め、回答を求めました。
大半のテレビ局は表現の自由を主張され、自社の番組内容がどうであれ、需要があるのだから仕方がないといった回答ばかり。

番組を提供するスポンサーの回答で、一社だけですが、スポンサーを降りるという思い切った決断をして下さった企業は㈱メルシャンでした。それを知った時は本当に信じられないほど嬉しかったです。
たった一社でも、今後の活動の意義をも改めて教えて戴いたようでとても勇気づけられ、感謝の気持ちでいっぱいになりました」

この浮田さんの手紙に私は感動した。
みんなが大きな声を上げれば、スポンサーは動くのだ。
スポンサー会社の社長には是非とも孫と一緒に、自社の提供番組を見て貰いたい。

自由の国アメリカでも俗悪番組追放運動が成果を上げつつあるそうだ。
みなさん、木村さんたちの運動を是非とも大きく全国規模に広げて行こうではありませんか。

木村さんのこうした地に足のついた活動の輪を広げたいと思う。

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2007年3月31日 (土)

「我慢」することの大切さ

私の購読紙は『文芸春秋』、『諸君!』、『WILL』、『正論』、『明日への選択』、『日本の息吹』、そして『月刊日本』などです。

『SAPIO』も悪くないが、西尾幹二先生と小林よしのり氏との教科書問題に端を発した実りなき(?)論争に嫌気がさして、一時購読を休止中。

『新潮45』、『致知』も『ザ読売』もいいが、全部読んでいると、他に自分の読みたい本も、やりたいことも、時間が足りなくなってしまうので、何種類かに限定している次第。

「『月刊日本』に対する感想は?」と問われたら、「ウン、面白いし、ためになるけれど、固すぎるね。もう少し気楽に読みたくなるようにしたら、読者も増えるんじゃないかな」と言いたい。
とここまでは一読者の勝手な感想です。

批評するなら、誰だってできる。
それなら無責任なマスコミやどこかの政党、くだらん学者・評論家と同じじゃないか、と南丘喜八郎主幹の怒りも聞こえてきそうですが、彼は私の意見を聴いてくれた。

実は私のほうから南丘さんに、『月刊日本』に何か書かせて下さいとお願いして、今回、出稿の機会を得たという次第です。
図々しい男ですよね、近藤建は。
立派な諸先生方にまじって恐れ気もなく文章を書くとは。

全くその通りなんですが、いつも川口雅昭先生の「吉田松陰名辞」や、南丘主幹の「巻頭言」に触発されている私は、「知っていて行わはざるは、これ未だ知らざるなり。知って行い、合わせて一つとす」という陽明学徒を志す男として、お許しを頂ける間は、毎月駄文、正に品格に欠如する文をお読み頂きたいと思います。

『近藤建は私です』

「名もなく貧しく美しく」という私の嫌いな生き方に、不本意ながらも似通った生き方をしている男です。
美しいとはどのような生き方なのか判断は難しいが、己に恥ずることが割に少なかった64歳の人生でした。

空手大学空手学部を昭和40年に卒業し、高校一年の冬に「よし、俺は空手道場で食って行こう」と決意した通り、卒業後、5つの会社勤めを経験した後、新潟に戻り、26歳で日本拳法空手道「拳心館空手道場」を始めました。

空手道場だけでは家族を養っていけず、仕方なく道場の館長の傍ら仕事を始めました。
株式会社ピコイ(創業時はラットパトロールピコイ)で、一時はかなり名の売れた経営者と言われた時代もありました。

しかし山あり谷ありの35年余の会社経営も、平成18年8月に完全に卒業しました。
ピコイの地獄あり、天国ありの物語については、本誌の読者の皆様には興味のないことでしょうから、割愛します。

三島由紀夫先生が自決された昭和45年が私の事業開始の年ですが、自決の前日である11月24日、私は妻に「今の日本で先生と思う人は三島先生だけだ」と話したことを、今も鮮明に覚えています。
勿論今も三島先生に対する尊敬の念は変わっていません。

檄文にある、

「経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民的精神を失ひ、本を正しさずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た」

「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる」

この三島先生の言葉は、今の政治家、教育者はもとより、事業の発展のためならば平気で国を売るような富士ゼロックス会長の小林陽太郎、日本IBM会長の北城格太郎、トヨタ会長の奥田碩にも教えてやりたい
と、まあこんなのが私、近藤建です。

尊敬している政治家は西村眞悟、そして南丘主幹が評価している男なら間違いない筈だと、毎月読んでいるうちに好きになったのは鈴木宗男。

会社経営を卒業した私は「武心教育経営塾」という名称で、ピコイ時代にやってきた笹神村塾での3泊4日の塾をやることと、経営コンサルタントをやろうと新たな目標に向かって進みつつあります。
経営においては、武士道精神と純日本的経営を基本に指導してゆきます。

武道家として過ごしてきた私の人生や経営者時代のこと、私の人生哲学については次回からポツポツと書かせて貰おうと思っています。

友人曰く。
「近藤にアドバイスすると、聴いているような顔をしているが、実は全く人の言うことを聞かない男だ」と。
しかし、私自身はそんなつもりはない。

納得できないのに動くのは嫌なだけ。
だから私は率直な頑固者です。
もし、皆様に私の考えと行動にご忠告を頂けたら謹んで承ります。

『武道で学んだ極意』

私は「合戦空手」と呼ばれた今の「実践空手」を49年間やってきました。
そこで学んだことは、努力の大切さと痛いことに耐えることでした。

痛さに耐えることを我慢という。
痛さと言っても、肉体の痛さは2番目で、最も痛いのは心の痛さ、即ち負けた時の悔しさだ。
その悔しさを乗り越えるには、痛さに耐えて稽古を積み、次の機会に勝つしかない。

どんな言い訳をしようと、理由をつけようと、自らの心をごまかすことはできません。
今の温室育ちの若者には、温室から出て触れる外気の冷たさ、暑さに勝つ、「我慢」することの大切さを教えていきたいと思います。

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